こんにちは、emustanyです!
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
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ついに今日からオリンピックですか。
今回に限らず、オリンピック(というかスポーツ観戦)には無関心です。
ブルーインパルスも、「すごいねぇ」というくらいで、特に興味なし。
どちらも、好きな人にはたまらないのでしょうけどね。
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友だちとのオンラインお茶会にて
先日、大学の友人ふたりとオンラインお茶会をしました。
友人はふたりとも子持ちです。
ひとりは、未就学の子どもたち2人のママ。
もうひとりは、第三子が意図せず双子で、4人のママです。
14時から16時半くらいまでつないでいましたが、まともに話をできた時間って、たぶん半分くらいかなぁと。 (;・∀・)
ふたりとも、話をしながらも、あれやこれやと常に子どもの世話を焼いていました。
ミルクをあげたり、寝かしつけたりと、時には画面から消えることも。
そんなふたりの様子を見て、「すごいなぁ」「ママなんだなぁ」と感心しっぱなし。
それと同時に、なんだか疎外感も込み上げてきます。
ふたりとも画面から消えて、自分の姿だけが映っているのを見て、「これでいいのだろうか?」と不安にもなりました。
「”じゃない” 側」であるということ
彼女らは、いわゆる「ワーママ」です。
一方のわたしは、ワーママ「”じゃない” 側」の人間。
#というか、そもそもママ「”じゃない” 側」。
最近、「ワーママ」という言葉(呼称)を聞くたびに、「”じゃない” 側」ってなんだか肩身が狭いなと思うようになりました。
#Twitterでこんな投稿もしていました。
最近常々思うのだけど、『ワーママ』に匹敵するような、既婚・仕事あり・子なしの女性の呼び名はないものだろうか。(「子なし」も表現としてネガティブな感じがして嫌い)
— emustany (@emustany) July 2, 2021
『ワーママ』はその呼び名で連携したり主張しやすく見えていて、「じゃない側」は肩身が狭く感じるんだけど、これって私だけ?
↑でも書いてますけど、そもそも「”じゃない” 側」に呼称がないんですよ。
強いて言えば「DINKS妻」とか「働く子なし妻」あたりになるんでしょうが、「ワーママ」のような収まりのいい呼び名がない。
だいたい「子なし」って、「無い」ことにフォーカスが当たっている分、ちょっとネガティブな感じもします。
不足している、とでも言われているような。
呼び名(それを表す言葉)がないということは、認識できない・しづらいということです。
ちょうど「HSP」「繊細さん」という言葉が出てきたことで、それをプロフィールに書く人が出てきたのがいい例ですね。
呼び名の有無によって、同士でのつながりやすさ、主張のしやすさも違ってきます。
極端な話、まとまりとして認識されなければ、政策や援助の対象にもなりにくい。
わたしが「ワーママ」という言葉を意識するようになった理由の1つに、Voicyがあります。
休職し始めてから聴き始めたVoicyですが、人気パーソナリティーの「ワーママはる」さんは、わたしもよく聴いている番組の1つです。
「ワーママはる」さんは、ご自身のポジショニングとして「ワーママ」を強く打ち出しており、話したり発信する内容も、著書の内容も、基本的には「ワーママ」を前提にしています。
キャッチフレーズとして、「賢く強かに」「ワーママサバイバル」などの言葉も使われています。
こういう「ワーママ」であることを前面に押し出している方、そして発信に対し、「”じゃない” 側」のわたしは少し息苦しさを感じてしまいます。
うまく説明できないのですが、何となく「ワーママ ”じゃない” こと」を否定されている気持ちになってしまうんです。
もちろん、そんなつもりはないだろうことは、わかっています。
女性全体で考えると、「ワーママ」と「じゃない側」というのは地続きです。
どちらかを否定したり、対立や傷つけ合いをするなど不毛なことです。
ただ、「賢く強かに」「ワーママサバイバル」という言葉には、「ワーママは ”じゃない側” とは違うんだ」という意思のようなものを感じます。
「”じゃない” 側」は、「賢く強かに」なんて意識したり、ならなくてもいいもんね。
「”じゃない” 側」は、「サバイバル」にはならないもんね。
そういう風に聞こえてしまうのです。
変な話、「”じゃない” 側」であることで、自分はマイノリティなんじゃないかとさえ感じます。
#実際どちらがマイノリティなのか、比率は全然知らないのですが。
本当にこれで/このままでいいのだろうか
このように感じるのは、「子なし」であることに対する罪悪感や後ろめたさのせいかもしれません。
生物的には、まだ(ギリギリ)産める年齢であるにも関わらず、産んでいない。
もっと言うと、産もうとしていない。
「子なし」を選んでいるのはわたしです。
実際のところは、「選んでいる」という確たる意思というより、まだ迷いや揺らぎを含んでいるところがあります。
一応「子なし」でいこうと思ってはいるものの、「本当にこれでいいのだろうか」「今は良くても後悔するんじゃないか」と思ってしまいます。
我が家は、夫は「(いつかは)子どもがほしい」と言っていて、わたしは「子どもは欲しくない、怖い、持ちたくない」と言ってきました。
結婚する前から、ずっと平行線です。
昨年末に夫がこの話を再度切り出してきたものの、結局今日に至るまで話し合うことはできずにいます。
↑の記事を書いているときから、基本的には考え方は変わっておらず、「産みたい」「子どもがほしい」といった思いはありません。
むしろ、昨今のコロナ対応やオリンピック対応のゴタゴタを見ていると、日本の未来に対するポジティブなイメージはますます描きにくくなっています。
これまで自分が信じ、頼りにしてきた家族の絆や親子の関係も、親の離婚話や、ワクチン問題をきっかけに、あっけなく崩れてしまうということがわかってしまいました。
何より、自分が不調に至った背景に親の影響力があることを理解・実感すればするほど、親として一人の人間を産み育てることには消極的になるばかりです。
※家族・親子関係については、この辺の本を読み漁りました。どれも一読の価値ありです。
選んで「子なし」ではいる。
でも、常に「これでいいのか」はつきまといます。
何が悩ましいって、今は子どもがいらないと思っているけど、それはあくまで「現在のわたし」の考えです。
産んで嬉しさ・苦労を味わうのも、産まずに寂しさ・後悔を味わうのも、「未来のわたし」であり、「現在のわたし」はそれを想像するしかできない。
想像だから、実際には「思ったのと違った」も起きうるわけで、その時は「過去のわたし=現在のわたし」を責めるしかなくなってしまう。
最愛の夫の希望を叶えられない、ここのしんどさもあります。
自分はワガママなんじゃないかと思ったり、申し訳ない気持ちにもなります。
でもだからって、夫のために産むのは絶対に違う。
これでいいのか。
本当にこのままでいいのか。
人間ってつくづくめんどくさい
散歩中、鳥たちを見ると癒されます。
だって彼らには「目の前のこと」しかなさそうだから。
将来がどうとか、過去がどうとか、周りから見て自分はどうとか・・・
何にも考えていない。(ように人間には見える)
彼らは当然のように子づくりをするわけですが、それも特別考えているわけじゃなくて、本能として子孫を残そうとしているだけ。(と人間には見える)
とてもシンプルで、うらやましいなと思ってしまいます。
人間は、考える能力を発達させすぎて、動物らしさ(目の前のことに集中するシンプルな思考)を捨ててきてしまったんじゃないでしょうか。
賢くなったし、そのおかげでいろいろ発展してこれたんだろうけど、もっとシンプルな思考をしていたなら、きっと鬱になったり不安になったりもせず、幸せでいられたんじゃないのかな。
鳥たちをボーっと見ながら、そんなことを思います。
ではまた。
*おわり*
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次回更新でまたお会いできますように!(*´ω`*)エヘヘ
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