お暑うございます。
熱中症アラートが止まらぬ日々です。
幸い、新居のエアコンは旧居に比べて格段に効きが良く、快適に過ごせています。
#設定は28℃でも、室温計を見ると27℃とかで、むしろびっくりしちゃう。
さて、前回の母が来た話の続きといいましょうか。
最後にこんなことを書きました。
母は自分の言いたいことや希望を言う権利があります。
それと同じように、わたしにだって、自分の言いたいことを言ったり断る権利があるのですよね。
だってもう、今は対等な一人の人間同士なんだから。
親と言えども一人の人間であり、家族と言えども他人同士である。
そんな、よく言われることが、ようやく腑に落ちたのでした。
その後も、このことをずっと考えていて。
あぁ、わたしの中には本当にたくさんの「〇〇しなきゃ」が存在しているんだなぁ。
そう改めて実感したのでした。
母に対する「〇〇しなきゃ」。
父に対する「〇〇しなきゃ」。
「〇〇しなきゃ」は、もちろん夫や仕事関係、そして世間に対しても。
わたしの日常にはすっかり浸透しているものです。
でも両親に対しては、「〇〇しなきゃ」というよりも、「〇〇してあげなきゃ」という方が近いかもしれません。
「お父さん/お母さんのためにわたしが〇〇してあげなきゃ」って。
これ、「お父さん/お母さん」のために「わたし」が、って書いてますけど。
たぶん実は一体化しちゃってるんだと思います。
きっと両親(特に母)のことを自分とは違う人間・個人として、うまく分離できずに今まできたんじゃないのかな。
だから、彼らの怒りや苦しさを、我が事のように一人称として捉えてしまう。
人の「課題」まで引き受けてしまうもんだから、自分が苦しくなって、どうにか解決しようとしてしまう。
だからってこちらから手を離せば、両親を見捨てたような、大事にしていない気持ちになってしまうので、それもできない。
それが「〇〇してあげなきゃ」の実態なのかも。
だけど、いろいろあって休職して。
休養しながら、たくさん学んで、たくさん考えて。
最近ようやく人間として分離することができ始めている気がします。
頭で理解するだけでなく、行動として、恐る恐る試し始めている。
親と言えども、所詮は一人の人間。
しかも大人だし、自分より数十年長く生きているんです。
それに、家族と言えども、所詮は他人同士。
しかもいわゆるガチャなわけで、自分で選んでこうなったんじゃない。
そうやって考えてみれば、ドライすぎるのはどうかなと思う(それが自分の価値観なのでそこを否定する必要はない)けど、そんなにウェットにしすぎなくてもいいんじゃない?って気がしてきます。
相手も一人の人間であり、いい大人。
何かの巡り合わせで、たまたま「家族」という関係性になった人。
裏を返せば、相手は、自ら考えたり責任を取れない子どもでもなければ、自分で選んで友達や恋人になった間柄でもない。
もっと、対等であっていいし、割り切って良いんじゃないか。
そりゃ産み育ててくれた恩義に感謝や共感はする。
だけど、それを必要以上に重く・大きく捉えすぎることはない。
だって、究極的には「勝手に産んだ」んだし・・・。
「親だから」って特別視しすぎないこと。
怒ってもいい。
嫌いになってもいい。
文句言ってもいい。
軽蔑してもいい。
言うこと聞かなくたっていい。
いつも優しく接しなくたっていい。
「親だから」ってあまり期待しないこと。
親も完璧じゃない。
何でも知っているわけでもない。
いつも冷静で客観的な判断ができるとは限らない。
表向きは人のためっぽくても、自分のための言動ということもある。
・・・そうだよなぁ、と思うのです。
また、同時に思ったのは、
「相手が親だろうと怒ったり嫌っても良いはずなのに、そうしないばかりか、何とか喜ばせようとしちゃうわたしって、なんて愛情あふれる娘なんだろう!」
ってこと。
もうこれはマザー・テレサばりの愛の深さと言ってもいい。笑
今度からは、「〇〇しなきゃ」が出てきたら、
「あらやだ、まーたわたしの
マザー・テレサが発動しちゃった★」
とでも思って、一歩引いて対応するのも良さそうですね。
ではまた。
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