こんにちは、emustanyです。
銀翹散のおかげでしょうか。
風邪症状はだいぶ良くなってきた気がします。^^
朝は痰が少し出ていましたので、きっと身体が頑張ってくれているのでしょう。
ガンバレー ガンバレー
しかしこの感じだと、土曜日のリワークは遠慮しておいた方がいいのかなぁ。
美容院にも行きたかったんだけど行きにくいなぁ。
うーむ。
お買い物マラソン終了、からの思考スタート
昨晩まで、毎月恒例の楽天市場のお買い物マラソンがありました。
時期的には本格的な冬を迎える前の最後のチャンス。
ここで何かしら冬用の服を買い足すかと、候補を検索してはレビューを読み、買い物かごに入れていました。
かれこれ2週間ほど悩んでいた感じでしょうか。
マラソンが始まってからもすぐ買うでもなく、毎日アクセスして悩んでは見送る日々。
結局、服やコートは散々迷った挙句買うのをやめて、最終日の昨晩になってようやく手堅い食料・消耗品だけ買いました。
最初から「今回は服やコートは買わない」と決めていれば、どんなに楽だったか。
費やせる時間と労力(とお金)があることは恵まれているとも言えますが、結局買わないなら元からない方がいいですよね。
そういう意味で、わたしはまだまだミニマリスト的な思考や習慣は持ち合わせていないんだなと改めて思ったのでした。
今の生活(休職+復職後は在宅勤務前提)において、どんな服がどれくらい必要で、それに対して今持っている服はどれだけ過不足があるか。
これをちゃんと把握できていないということでしょう。
今持っている服の中には、会社用(休日はほぼ着ない)のものがあります。
数は多くないですが、夏用・冬用どちらにもあります。
もちろん今は休職中なので、それらが登場しないのは当然として、じゃぁ復職した時に「これ、本当に必要?」とも思うのです。
会社用だから休職中で毎日休日の今は着ない。
それならスパッと割り切れそうなものですが、それなりに着心地や見た目がいいものと分かってるからこそ手放しづらい。
わたしが買うのはベーシックなものが多いので、毎年似たような商品が売られているのは分かっています。
一度手放したところで、きっと必要になれば似たようなものはまた手に入れられるでしょう。
なのに手放すのに抵抗を感じる・・・。
服そのものじゃないとすれば、一体何に執着してるんでしょう。
書きながら少し考えてみて思い当たったのは、
「簡単に捨ててはいけない」「使い捨て至上主義に便乗してはいけない」
というような考え。
服やファッションというのは、ある種エゴの権化(笑)のようなものです。
最近はサスティナブルとかエコ・コンシャスとかしきりに言われます。
そんな中、服をポンポン買っては捨てる、という行為を快く思えない自分がいるのかなと。
正義感や理性が強く、自分より周りを優先する”わたし”のことですから、そういう行為を自分にさせるのを許さないのかもしれません。
もうひとつあるかなと思ったのは、ここでもチラつく母の存在。
以前も少し書いていますが、母は化粧や肌の手入れもしないスッピンピンの人。
ブランド志向やミーハーな人を冷めて見ていたり、服も大して着飾ったりしません。
物欲がないのとは少し違うけど、虚勢を張るためだけに物は買わないというか。
彼女のこうした生き様には、自分の容姿にコンプレックスがあったり、自営業だった親に負担をかけまいと強い自立心を持っていたり、父が薄給だったり・・・といったこともあるのかもしれません。
そうした母を見て育ったわたしも、似たようなところがあります。
全く気にならないわけじゃないけど、流行を追いかけようとは思わない。
ブランド品にはほぼ興味がない。
化粧も大して一生懸命やらず、美を追求するような気概はない。
でもこれ、本当にわたしが望んでそうしてきたんだろうか。
休職して、自分の価値観やものの見方に親の影響があることを理解するたび、わからなくなりました。
自分が「やりたい」「欲しい」と望んでると思ってやってきたこと。
本当にそれは自分自身が思ったことなのか。
もしかしたらわたしは許せないのかもしれません。
「お母さんが良しとしてこなかったこと」を自分がやることを。
「お母さんがやりたくてもできなかったこと」を自分がやることも。
たかだかお買い物マラソンで服を買わなかっただけで、考えすぎでしょうか。
・・・わたしもそう思います。^^;
でも書いてみると、どんどん「さもありなん」と思えてくるから不思議です。
単なる買い物でもこんなに思考思考になっているのかと思うと、もうちょっと気楽に、たまには【欲しい!→購入ポチッ!】と脊髄反射的な行動を ”あえて” してみたくもなるのでした。
*おわり*