こんにちは。emustanyです。
今朝は散歩おやすみしてスタバへ。
#「昨日はタリーズで今日はスタバとか、カフェ行き過ぎだろ!」って思われちゃうかな。・・・とか、よくわからない誰かの批判をすぐ想像しちゃう。いいのいいの、これでいいの。
どこぞで見かけたキャラメルマキアートのシロップ変更(バニラ→キャラメル)というカスタマイズをやってみました。
【結果】んー、なんかよくわからない。(苦笑)
キャラマキって、最初はキャラメルソースで甘いけど途中からは普通にコーヒーの味、というのがアイデンティティ?かと。(わたし的に、ですが)
それがこのカスタマイズだと、わりとずっと甘い。
いや、甘いのが悪いわけじゃないんですよ。
何となく思ってたのと違うというだけで。
キャラメルスチーマーと似たような味だなぁと思いました。
何事も自分で試してみないと分からないものですね。
#と、うまーくまとめた体(てい)で。笑
それにしても・・・
”朝シャンの彼女”が強烈なにおいを放っていて、苦痛でございます。。
カフェはコーヒーの香りを愉しめる環境であってほしいと切に思うのでした。
さて、今日はちょっと前(というか結構前)から書こうかなぁと思いつつも何となく手をつけていなかったことを書いてみます。
#3つくらいあるけど、まずは1つ。
いつだったか、「スパイスを学びたい!」みたいに思った時がありました。
その時適当にググって見つけたのが『自由大学』というサービス。
結局未だに『自由大学』は利用していないままですが、会員登録したのでたまにメールが来ます。
多くの人がそうでしょうが、たいがいこういうメールは読みません。
でもたまたま開封し、目が留まったコラムがありました。
今確認したら7/29に届いたメールでした。
3か月前なので今はまた少し状況も違いますが、完全に陳腐化してはいません。
少し長いですがちょっと読んでみてください。
【1】コラム:Ready Study Go!
「ただ死なないために、生きているわけではない」
国が、知事が、イベント主催者が…。誰かが責められている場面ばかりで心が傷みます。家族や職場、身近な人同士でも、危機意識の違いでディスカッション疲れがありました。
「もし、自分が国のリーダーだったらどうするだろう」
あなたも想像してみてください。
・全員に自粛を強制?
・特定の人のみ自粛?
・自粛せず今まで通り生活?
今回、各国の対策に違いがあったように、いろいろ選択肢があると思います。
ぼくだったら「何の強制もしないだろうなぁ」と思いました。一律に自粛を強制することはしません。
正確な情報だけ伝えて、「各自、気をつけてくださいね」。あとはそれぞれの判断に委ねます。
遠くの町で病人が出たと聞けば、少し危機感を持ってマスクをするだろうし、いよいよ近所から出たと聞けば、誰に言われなくても外出自粛するでしょう。
そろそろ嵐が去ったかな、と思えば防空豪から出るだろうし、食べ物のストックがなくなった人も外に出るしかありません。
過保護にせず、もっと一人ひとりの生きる力を信じたい。人間は工夫するものだし、そんなに弱くありません。多くの調査データからの事実を、隠さず加工せずメディアで伝えます。その上で、「あなたはどうしますか?」と問います。
自分で考え、それぞれ自分で決める。みんながプレイしている人生ゲームは、自分でコントローラーを握るから面白いんです。選択肢があるから面白い。
家族で話し合う、社内で話し合う、団体なら団体の方針を各リーダーや自分たちで決める。お店を開けるなら開けるし、お客さんも行くなら行くし、控えるなら控える。
余裕がある人は困っている人を助けるし、国が言わなくても、そういう動きは自然に起きる。「もうギブアップ! 助けてくれー」と求めてきた人を救済する施設には、公的資金を投入したい。変化に慣れていない人にとっては、すべてを自己責任で決めるのも疲れるので、一時的な休憩室もあるといい。
大切なのは、他人の物差しを尊重すること
改めて実感したけれど、一人ひとり「危険の物差し」はこうも違うんだなと。
イベントを開催するかしないか。
リモートワークにするかしないか。
社内で歩み寄り、一つの結論を出す。どうしても納得できない人は、別の道を歩む選択もあるでしょう。自分の信じる道を、各自が歩む。
いま「国が自粛を強制したのだから保障を」ということで、給付金が投入されています。これも、もらえる人、もらえない人で批判が起きる。不安になったところに助けてもらえると、民はどんどん、おカミに依存してしまう。反対に不都合が起きるとすぐ「国はどうしてくれるんだ」と、他人を責める。
動物は、エサがなくなったら移動します。危険を察知したら、逃げます。たまにその選択を誤って、死んでしまうものもいます。
死ぬとはどんなことなのか。多くの人が漠然と信じているように、本当に最悪の不幸なのか。本当に恐るべきものなのか。あってはならないものなのか。
不安は目をそらすから大きくなるのです。もし不安でたまらないのなら、「死とは何なのか」この暗闇にスポットライトを当てて、とことん調べて向き合うことです。自分にとっての死生観を持つことです。ぐらぐらするのは、死生観がないから。
自分はなぜ生まれて、なぜ死があり、死後の世界はどうなっているのか。
その上で、じゃあ、この人生をどう生きたらいいのか。
「生きる」ということは、ただ「死なないこと」ではないはずです。
それぞれが、今世での自分の役割を、まっとうしましょう。
TEXT:自由大学学長 深井次郎
どうでしょう。
これを読んで何を思い、何を感じたでしょうか。
大切なのは、他人の物差しを尊重すること
改めて実感したけれど、一人ひとり「危険の物差し」はこうも違うんだなと。
動物は、エサがなくなったら移動します。危険を察知したら、逃げます。たまにその選択を誤って、死んでしまうものもいます。
動物の世界は確かに厳しい。しかし超絶シンプルです。
他の個体と自分を比較して劣等感でイジけたり、相手を陥れるような下劣な嘘をついたりしない。(あ、全くないとは言ってないですよ)
でも人間の世界では、良くも悪くも周りへの関心が高すぎて?なかなか放っておいてはくれません。
自粛警察やマスク警察などが最たる例ですが、動物の世界と比べると本当に過干渉。
とはいえ、みんながみんな周りを気にせず個人主義で生きていくのも悲しい(&つらい、怖い)。
ただ、最近は少し(いや、だいぶ?)行き過ぎていると思うのです。
諸外国と比べて日本はマスクの着用率が高いという話を見聞きしますが、マスク警察が現れたように、集団/全体主義の流れが強化されている気もします。
以下はいずれもちょうど昨日も見かけた記事ですが、やはりここでも行き過ぎた集団主義について考えてしまいます。
選択肢があるようで実はない(他の選択肢を選ぶことを良しとされない)って、結構あることだと思うんです。
それが自分の思考のクセから来るものであれば良いんです。
影響は自分だけに留まっているし、直しようがある。
でも、集団からくるものだとしたら、すごく苦しいし怖い。
まぁフワッと言えばこういうことなんでしょうが。
自分で考え、それぞれ自分で決める。みんながプレイしている人生ゲームは、自分でコントローラーを握るから面白いんです。選択肢があるから面白い。
最後にもうひとつ。
このコラムで最もグサッと来たのはやはりこの言葉。
「ただ死なないために、生きているわけではない」
「すごく当たり前のことなのに、分かっているつもりで全く分かっていなかったな」と思いました。
少なくともコロナ以前のわたしは「死生観」というものは持っていませんでした。
今は見ないようにしていますが、一時期はよくTwitterを見ていて、この「死生観」という言葉を見かけては考えてもみました。
小さい頃から、なぜかトイレの中などで
「死ぬってどういうこと?」
「今見えたり聞こえたりしているのが全部なくなるってこと?」
と考えては怖くなっていました。
そして今もなお、わたしは死生観を持てずにいます。
だからコラムのこの部分も見透かされたような気持ちになりました。
不安は目をそらすから大きくなるのです。もし不安でたまらないのなら、「死とは何なのか」この暗闇にスポットライトを当てて、とことん調べて向き合うことです。自分にとっての死生観を持つことです。ぐらぐらするのは、死生観がないから。
死生観・・・どうしたら持てるんでしょうね。
祖父母4人を見送って、それなりの回数法事(仏教)も経験し、さまざまな法話も聞いてきましたが、いまいちピンと来なかった。
輪廻転生とかハイヤーセルフ的な話もピンと来ない。
夜に寝て朝になると目が覚めるのが当然のように過ごしているけど、死ぬっていうのはそのまま起きない・以上終わり!っていう感じかなと今は思っています。
#これって死生観とは言わないか。
こうやって死生観について悶々と思う時、ある意味宗教を持っていたかったなとも思うのです。
・・・書いてはみたものの、何だかまとまりがなくて申し訳ありません!
このコラムについて何か書きたいとはずっと思っていましたが、いざ書いてみると自分の考えをまとめるってやっぱり難しいですね。
もしよろしければ感想、ご意見などいただけたら嬉しいです。^^
それでは今日も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました!
(勝手にやりきった感。笑)
*おわり*